2008年04月09日
魯迅と仙台
どんな事をした人物だったんでしょうね。
松本亀次郎の下で日本語を学び、1904年9月から仙台医学専門学校(現在の東北大学医学部)に留学する。当時は日露戦争の最中であり、町で戦争報道のニュース映画を観る機会があった。その映画では、ロシア軍スパイの中国人が日本人によって、間諜(軍事スパイ)として処刑され、さらに同胞である中国人が処刑される様を喝采して見物する姿があった。それを見て、中国人を救うのは医学による治療ではなく文学による精神の改造だと考えたのだという(『吶喊自序』『藤野先生』)。
当時の官立の学校では中国からの留学生の入学は清国公使の推薦状で入学が許され、周は無試験で入学している。このため学力不足の留学生は途中で挫折している。特に医学のような学問修得に特別の忍耐と努力を必要とする分野では、卒業にまで漕ぎ着けるのは至難の技であった。当時周には多額の奨学金[3]が支給されており、授業についていけず町で遊興に耽ることもあり、やがて学問に対する興味も薄れていったと考えられる。ニュース映画の場面は多感な年代の彼に大きな影響を与えたことは否定できないが、医学に挫折する自分に対する心理的な合理化(言い訳)としての側面も否定出来ないであろう。
1906年3月に仙台医専を退学し、東京での生活を経て帰国。杭州・紹興などを経て、1912年、南京において中華民国臨時政府教育部員となる。さらに政府の移転に伴い北京へ転居。1918年雑誌『新青年』に『狂人日記』を発表する。以来、「魯迅」およびその他多くのペンネームを用いて文筆活動を本格化した。
また、北京大学などで非常勤講師として中国小説史の講義を担当した。中国の伝統的文学観においては、小説は歴史や詩文に比べて一段低いものと見なされ、研究に値しないとされてきたのだが、魯迅は早くから散逸していた小説の断片を集めるなど実証的な基礎作業をすすめていた。その蓄積にもとづいて神話伝説から清末までの小説史を論じたものが『中国小説史略』(1924年)である。中国最初の小説史であり、今日でもこの分野を語る際の必読書となっている。
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